杉の坊のつぶやき

実は知らない健康や医療に関する専門的な情報をお届けできるよう頑張ります!個人のつぶやきもあります

自分が正義だと思った時、人は……。「正しく恐れる」は重要な言葉

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言が解除され、

全国各地が自治体よる対応にて、自粛や休業要請が

緩和されはじめています。

 

特定の地域では感染第2波が懸念されていたりと

都市ごとに対応も様々なようです。

私も私なりの基本的自粛生活から、

ゆっくりと現場をスタートしはじめました。

 

 

この感染が拡がり始めた頃から言われてきた

「正しく恐れる」という意味が、一旦自粛生活を経て

仕事や生活が再開され始める中でとてもはっきりと

その意味を感じさせる出来事が非常に増えています。

 

感染初期から緊急事態宣言中にはそれほど感じさせる事なく

緊急事態宣言によってもたらされた非日常が、

人々の感情や考え方などを変化させたのかもしれません。

 

「正しく恐れる」と言われ始めた当初

何だそれ? と言う人が多かった事を記憶しています。

緊急事態宣言が解除され、通常に近い生活に戻る人が増え

その中で様々な出来事が聞こえてきます。

 

私なりに考える「正しく恐れる」についてお話しします。

 

「正しく恐れる」は簡単に考えれば、

まず、過剰過敏にならない、混乱しない、など冷静になる事。

次に、恐怖や警戒心を偏見や差別につなげない。

自分自身の判断基準と他人の判断基準を比べない。

自己の考えはそのままに他者の考えも考慮配慮する。

そしてそれらを前提に情報を共有して互いに協力する。

これだけのことではないかと思っています。

 

恐れるべく対象があって、共有するべく情報はあるのですから

状況や内容をしっかりと自分自身で冷静に考え行動を決める。

周りに配慮して、相手の立場に立って、少し考える。

人として、大人として、社会人として、

特段難しいものでもない常識の範疇だと私は思っています。

 

しかしながら、価値観に左右される要素が大きすぎたため、

「自分の可能な範囲でできる選択をしましょう」に対し

自分の事、自分の取り組み方を考えればいいものを、

自分のことを棚に上げ、人のことばかりを見てしまい

自分の感覚と違う方法を選択している人を攻撃する機会が

多く感じられるようになりました。

 

ただし、攻撃や誹謗中傷と、批判、指摘、注意は別物です。

明らかに今必要ではない事をしたり

やめてくださいといったお願いすら聞く気がない、

少し待って下さいが待てない、

相手の価値観を考えて少しの譲り合いができないといった

平時でも批判されるような行動を取る、まさに子供のような人は

批判や指摘、注意を受けるレベルですので全く別です。

 

ただ、この線引きを非常に難しく捉えている人が多く、

例えば自粛に関して代表的なものでは

自粛警察や自粛警察警察などの連鎖が起き

自分の判断基準を外れる人を過剰に攻撃したりと

相手の状況を考えずに自分の判断を人に強制するケースや、

感染を恐れるあまり方向を見失い、

気を付けていたのに不幸にも感染してしまった人や

医療従事者やその家族などに対し、

偏見の目を向け自分の周りから排除しようとするなど、

常識の範疇と常識を逸脱したものの線引きと判断が

冷静に出来ていない人が出てきました。

 

当然ながら逆もあって、自粛を選択する人や

集まりや仕事などに対して控えたり消極的になる人を

大げさ、怖がりすぎ、自分達は大丈夫、といった風に

自粛は馬鹿のする事だと言わんばかりの扱いや批判をしたり

誘いや仕事を断る事がまるでペナルティにつながるかのように

会社の上司が仕事を強要したり、

様々な状況においてそれぞれに無言の圧力など

状況に前例が無く判断が難しいことなのですが

確実にパワハラに該当することも起きています。

 

とにかくどちらにも共通するのは

本来は共有しないといけない基本呼びかけ、

感染症です、人との接触を出来るだけ避けて下さい」に対して、

危機意識の認識レベルでの価値観の違いがあまりにも大きすぎて

盲目的に人の事に対して暴力的に口出しする人が出る事。

 

こういった人々の多くは、

周知する基本的な呼びかけや配慮といった部分を

具体的且つ客観的に判断できず、問答無用でルール化してしまい

状況における判断が全くできていません。

また同時に、ウイルスがどうのこうのといった判断ばかりなので、

感染するしない、死ぬ死なない、怖い怖くない、といった

非常に単純で短絡的なことだけを判断基準にしているから

問題に対しての現実的な考慮が全く出来ず

ただただ ウイルス=悪者 の構図から導き出される発想が、

警戒する人は、ウイルス=恐れるべき悪、

警戒しない人は、ウイルス=たいしたことないくせに人を怖がらす悪

といった風にどちらの立場の人も、

自分は正義という歪で無駄な感覚が広がり、

その思い込みから、共通の敵であるはずのウイルスに対して

自分は絶対正義と錯覚して簡単に認識の違う他人を攻撃します。

 

仏教の言葉に「自分が正義だと思った時、人はどこまでも残酷になる」

という言葉があるように、今回のコロナによってそれぞれの判断が必要になり

「自粛」「三蜜」などの言葉が完全に一人歩きして勝手にルール化し、

それをあたかも絶対的な正義と勘違いして錯覚し、

みんなが各自で考えて共有するはずの ウイルス=敵   の構図が 、

ルールに従わないもの=敵に加担する悪

となってしまい、攻撃して当然の対象になってしまっています。

 

ルールを強要する認識も非常に稚拙なレベルですので、

そもそも自分自身がウロウロと出歩いているのに

ソーシャルディスタンスの距離を相手ばかりに求めたり、

外出している人を非難したり攻撃したりと

自分の行動を客観的に見ることができておらず、

ソーシャルディスタンスだの、三蜜だの、自粛だのといった

言葉の文字面だけしか考えていないので

今の目の前の状況や状態、人の雰囲気など

考慮すべき事を考えずに一方的に押し付けるばかりになり

場合によっては無理難題になり得る事すらも想像できないために

簡単にトラブルに発展してしまいます。

 

現場でまさに象徴と言える状況を見ました。

 

喫煙者はいま正に肩身の狭い思いをしている状況で

各施設においても喫煙所にはルールを設けています。

今の状況で喫煙所を解放していること自体が貴重でしょう。

ちなみに私は喫煙についてはマナーをちゃんと守るなら否定しません。

 

少しフェイクはいれますが見る人が見ればはっきりとバレます(笑)

私の見た喫煙所では一定の距離を保つ為に5人までの制限があり

喫煙以外の休憩や飲食、スマホ操作、おしゃべりなどを禁じています。

 

このルールに対して私の認識としては

喫煙者が外で並んでいる状況でもあったので

喫煙が終わり次第場所を空ける事は大前提であっても、

喫煙中の同時進行でのスマホ操作、手帳の確認、

書類の閲覧など、喫煙しながらの状態であれば良いのではないか

と思っていました。

喫煙を伴わなければマナー上、当然ながらダメだと思います。

 

ビル内の従業員用の施設であったので従業員しかいません。

そこに中間管理職社員が来た際

「みなさんスマホは禁止です!喫煙所が使えなくなりますよ!」

と自分の喫煙のついでに大声で言い出しました。

 

・・・なるほど確かにそのようにルールの告知はされています。

が、おしゃべりが禁止されているのに、注意のその後に

親しい従業員とその説明やその他の話で

べらべらとかなりのボリュームでおしゃべりを始めました。

 

私の認識は確実に「ダブルスタンダード」の状態です。

もともと評判の悪い管理職なのと、ばかばかしいので

何も触れずに呆れながらその場を後にしました。

 

この状況も、管理職にとって

自分で認識している正義を行使しているのでしょう。

しかし、告知の内容が曖昧な要素を含んでしまっているので

個人個人の認識の要素を含んでしまう事になっています。

 

もともとこの喫煙所は部屋も広くベンチなども充実していたので

喫煙しない状況での休憩などでも使用されていた場所でした。

人数制限が必要となり、そのために最低限の目的である

喫煙のみを目的として利用する事が求められ、

喫煙以外で時間を使う事で利用者に不便が発生する為、

回転効率を上げるために喫煙以外の利用を禁止した

といった所までは十分に理解できます。

 

そもそもの利用者のほとんどはその状況を理解していますので

喫煙が一番の目的である事、喫煙の為に利用することは

それなりに周知できていることだとも思います。

 

当然ながら管理職の者もその状況などを理解して、

利用についての効率からの告知である事は想像できるはずです。

しかし結果は、管理職はルール告知の内容を自分の中で解釈し、

喫煙しながらのほかの行為についても注意を行う選択に至っています。

ルール告知の段階で「喫煙を伴わない」と言った一文が入れば

おそらくこのように皆が皆モヤっとするような事にはならなかったでしょう。

結果、管理職自身はおしゃべりはいいと思っているようですので・・・(苦笑)

 

 

ルールは明確化が必要です。

誰が見ても禁止されている事がはっきりと理由と共に理解でき、

その理由に沿って許される部分、融通の部分も同時に見える必要があります。

 

ルールに伴ってトラブルに発展するのは、

ルールの文言をそのまま少しの融通も無く行使しようとする場合や、

ルールによっての不便についての部分を明確に配慮していない場合です。

 

何が何でもルールはルールだと考えたり

状況によっての臨機応変さが適応できないままだと

当然ながらトラブルなどに発展し、

場合によって関係ないところに向かっても不便などが生じます。

 

私は主に日本で生活していますのでほぼ日本の事しかわかりません。

日本で生活していて一番感じるのが、世の多くの人が

何事においても状況判断と臨機応変さに乏しく、

明確な前例など、

目に見える自分以外の判断基準がない状況にとにかく弱く

いい加減になり、逃げたり向き合わなくなると言う事です。

とにかく自分で判断する事や自分で決める事を嫌います。

 

その結果、世の中の風潮や根拠の乏しい大きな声、

テレビやメディアの偏向的で無責任な情報に惑わされやすく

主体的な考えが無いので簡単に180度コロコロと変わります。

手のひらを返し、背中から撃つ人が本当に多いです。

それが全く悪意無く、正否に関係なく何かを信じて行動しているので

とても面倒でとても厄介です。

 

話がそれましたがたまたま喫煙所で顕著に見えた状況は

コロナの状況に限らず、他の状況においても多くあった事で

会社のルール、社会のルール、決まりごと、規則など、

状況にあわせての判断があるからこそ成り立つはずのものが

字面による問答無用の強制により、本来はルールによって

円滑さや快適さ、安心などがもたらされるはずなのに、

ただただルールを守らせることばかりに尽力してしまい

不快、不便、不安を感じさせ、そして臨機応変さを失わせています。

どこの会社にもルールだからを連呼する社員が本当に多く、

安全性や守秘のための遵守徹底されるべきルールと、

状況を考慮して臨機応変さを求められるルールでは

扱いも判断も変わるのですが使い分ける能力がありません。

ルールという文字だけを絶対的な正義と信じる行為は

宗教戦争のような神を盲信した争いに通じるまさに幼稚な心理です。

 

今回の自粛についても、

本当はそれぞれがそれぞれのできる事を選択すれば良い事で、

人が自分と同じ内容や同じ判断にならない事をとやかく言う必要はありません。

やるやらないやその内容は少し相手のことを考えるだけで、

本当に配慮していないのか、配慮した上での行動なのかは

きちんと見ていればきちんと伝わってきます。

不可抗力も当然含まれてきますので、

そういった人の詳細な事情などわからないのが普通です。

 

出来るのにやらない人、やろうともしない人、

そもそも気をつけてすらいない人、

そしてなによりも、

気を付けている人に対して一切配慮しない人などは

注意や強いお願いをされても仕方がないと思います。

 

元々はルールというものは、

どんなにお願いしても聞いてくれない一定の人達がいることや

残念ながら常識の範疇で行動してくれない人達のため

一律で基準をある程度決めて可視化できるようにしているものです。

 

少なくとも現在の社会は、望むと望まざるに関わらず、

社会として共通の認識を持つべき状況下にはあるのですから、

普段からのマナーの部分として考えているような

割り込みをしないとか、咳をする時に手を当てるとか、

電車で電話しないとか、ほんとそんな程度のことです。

 

それでもどうしても人に気遣うのが嫌ならば、

人のためではなく自分のために

ほんの少し、気を付けているフリをするだけでいいのです。

それが結果的に勝手に思いやりであったり配慮になるわけです。

やらない善よりやる偽善の言葉通り、

自分が正しいと思うのであればむやみに逆らって主張して

なにかと過ごしにくい要らぬ批判や軋轢を生むよりも、

気持ちは置いておいて狡猾に立ち回る方が賢いはずです。

 

気遣っているのに噎せたり咳をするだけで睨まれる、

電車の席に座ると白い目で見られるなど、

過剰な人の反応によって、ちゃんと気を付けていて

仕方が無い状況にもかかわらず

無条件に嫌な思いをする機会も増えています。

 

何の為に自粛を呼びかけてマスクをするのか

見えるところしか考えてなさすぎる。 

 

本当に根元の部分が完全にずれてしまっていて

目的もおかしくなってしまっています。

思いやりの意味も、感謝の意味も、

平和な世の中と今の世の中では確実に違ってきています。

ちゃんとほんとうの意味が見えるようになってきたと私は感じています。

 

ウイルスの蔓延は重大な問題でしかありません。

でも、不謹慎かもしれませんが世の中のルールや過ごし方を考える

本当に貴重な機会になっていると思います。

 

私も人です。感情も思いもあります。

コロナの状況は様々な人の見えなかった横顔が垣間見えます。

いるもの、いらないもの、できること、できないことが

けっこう意外な形でみえてきています。

まだまだこれからかもしれません。

 

いろいろな意味でやっぱりこの状況はいいとは言えません。

このまま収束してくれるか、

一日もはやくワクチン、特効薬ができることを祈ります。 

 

 

 

杉本