杉の坊のつぶやき

実は知らない健康や医療に関する専門的な情報をお届けできるよう頑張ります!個人のつぶやきもあります

想像力

※内容はあくまでも個人の主観です。

 

新型コロナウイルス感染症の拡大から現在の減少傾向の中、

様々な意見が世の中には飛び交っています。

ウイルスのこと、日常のこと、政府のことなど、

私個人も変化していく状況の中、このブログで

色々な考えを示してきました。

 

ようやく収束への期待ができ始めた世の中で

二転三転と意見や批判の内容も変わり続けています。

 

あくまでも個人的にではありますが

世の中の様々な意見を目にしている中で強く感じることがあります。

 

それは一言で言うと

とにかく「想像力」がない者が多すぎる。

という事です。

 

たしかにコロナの影響に関わらず

平時から仕事に関わって感じてはいましたが

コロナによって世の中が異常な状況になることによって

平時には見る事ができないであろう部分が見える状況が増え

とにかく何事においても多くの人がそれほど考えていないのだと

予想以上に感じさせられる事が多いことに少し驚きました。

 

1番顕著なのは「自粛」に関する発想。

何度も何度も書いてきましたが、この自粛に関してはほんとうに

短絡的な発想を持つ人が異常なほど多いのを感じました。

 

私が正しいかどうかはわかりませんが私が感じたままを書いてみます。

 

色々な立場の人、色々な職業の人、色々な事情がある人、

受ける影響や変わる環境、境遇など、想像しきれないほどに

色々な人がいます。そして考え方も同じ数あると思います。

 

基本的に自粛は人に求めるものではなく自分で行うものです。

ですから、自粛を自分の基準で人に求める事は違うと思います。

自粛するならする。しないならしない。それは本当に自由です。

その自粛の内容も人によって様々ですので、

どの行動が正しくてどの行動が間違っているのかという事とは

基本的に比較して考えるべきものではないと思います。

しかし、

そもそも自粛を必要とした背景と理由は?

という点はとても重要、というよりもそこが全てです。

きちんと明確な理由があり、自粛の目的としての最低限の基準はあります。

必要のない自粛を促したわけでもなく、感覚的なものでもありません。

ですから本来は自粛を必要とした理由と背景はきちんと考慮して

意味に沿った内容を想像した上で前向きに取り組む必要があります。

 

これも何度も何度も書いてきましたが、そもそもの自粛の理由に対して

ここからは私が理解、解釈する説明とともに細かくひとつひとつ書いていき、

想像力がないという理由も添えてみたいと思います。

(国名などの特定な名称の表現は避けます)

※ここからは記事の書き方を少し変えてみますので読みにくくなったらすみません。

 

〈自粛を呼びかける原因となった理由〉 

1) ウイルスによる感染症が発生した

未知のウイルスを原因とした感染症によるパンデミックが外国で起こり、国内で感染者が出たことによって感染拡大と感染爆発を防ぎたいため、国内でパンデミックを起こさないため、はじめは基本的な予防対策と危機意識などを広めたが感染者数の増加が続いたため、より効果的な方法として自粛を呼びかけたのがはじまりだと思います。

 

 

2) 感染が拡がる原因は人の接触である。

ウイルスの感染が人人が基本となり、接触や飛沫といった人の動きに伴うものが全ての感染原因である事によって、可能な限りの行動を抑制する事が1番の対策で、何をすれば良いのかのイメージは子供にも出来るようなレベルです。可能な範囲で不要不急の外出を減らし、可能な限り人との接触を減らす事が最も的確な対策なので、まずは国内の人々の理解力と想像力に任せて自粛のお願いがでました。

しかし、様々なことを想像できうる材料は十分にあったにもかかわらず、予想を超えて理解が行き渡らないため感染者の増加は続き、結果的に緊急事態宣言と共に強い自粛と制限を行わざるを得ない結果になりました。

人が動くことによって感染が拡がるというとても簡単で基本的な事で、単純に動かなければ拡がらない、拡がりにくいという何ひとつ難しくないものが、注意喚起程度では周知できなかった事が自粛呼びかけが必要になった原因です。

実感できず目に見えないものですから、このくらいでいいだろう、自分の目に見えるまで大丈夫だろうと思った人が多いのは確かですが、その発想の根元はウイルスというものへの想像ではなく、自粛の呼びかけという単純なものに対し、マナーやルールの範疇程度の理解と認識であったため、本来は「ウイルスを原因とした呼びかけ」なのですからそれぞれがウイルスへの理解と可能性を想像し、出来ることできない事があるのは当然ですが、想像力を持って可能な範囲で原因に対して効果のある方法を想像して選択すべきでした。

個人的にはこの点について、民間の大きな企業などは、政府要請を超えるほどの「流石」と言えるような素早い先回りの対応をするものだと思っていましたが、実情は様子を伺いながら他を出し抜く機会として捉えていたのが透けて見える対応で、結局後手後手で中途半端が目立ちました。ここではあまり触れませんが、企業もはやくからお金の心配と他の顧客を取り込むチャンスだと考えた事もあったと思います。将来的且つ継続的な利益よりも目の前の利益を優先した事が1番の原因かと思います。結果的に感染者を出してしまうなど、予測できた風評に対する想像力の欠如が見えたと言えます。

個人においても、強制力や法的拘束力がないのをいい事に、マスクをすればいい、気を付けてるからいいといった気持ちレベルで実質的には行動は何も変わっていない状況が続きました。呼びかけが行われた理由や背景、内容を全く考えずに、想像力なくマナーやルールの範疇でしか捉えていなかったと判断できるものに、自粛を呼びかけられた当初から「同調圧力」「政府の命令」だと騒ぐ人がいた事が1番わかりやすいと思います。あきらかな理由のあるお願いと協力を求められたことに対し、無意味に逆らい拒む理由が私にはわかりません。

 

 

3) 感染によって命を落とす人がいる

人人感染がある中で、感染者の中には無自覚、無症状の人がいる。その反面、感染から重症化、死亡するケースもある。疾患など、重症化に多少の条件は言われているものの、感染によっての傾向は未知数で、ウイルスを原因として命を落としてしまう人が実際にいます。

この点について、重症化率や致死率などの数字だけをみて、自分は無自覚で無症状で済む確率の方が高い、死ぬことはないから大丈夫だと考える人がいる事、コロナ以外での年間の肺炎患者の致死数などと比較したり、年間の自殺者数と比較してたいした事がないと言ったりするものが医者にもいます。

まず、こんな質問が必要になる事が異常なんですが、自殺や通常の肺炎は人にうつしますか?自殺や肺炎の原因は同じ条件のウイルスなんですか?人にうつす可能性が高くて、うつされた人の誰が重症化して誰が死亡に至るか全くわからないから気を付けるのでは?

そもそも全く別のケースと未知のウイルスを比較する時点で本当に医者なのか疑いたくなるような意見です。

感染力に至っては現在の時点で普通の風邪やインフルエンザよりも高いという状況で、どうしてもインフルエンザに例えたいならば

インフルエンザを持ちながら無自覚で無症状だという人が世の中にうようよいるかもしれないと考えてみれば、それだけでもかなり嫌な状況だと想像できそうなものですし、自分がうつされて重症化しない可能性なんてわからないわけです。あと、インフルエンザには薬が存在しますので比較の対象にもなりません。同等または類似のウイルスや感染症などと比較して研究などに応用するならまだしも、全く原因の異なる死んでいる数という事だけを引用し比べ論じる事自体が想像力の欠落、というより人の死んだ数の大小で比較すること自体があまりにも稚拙で、人の立場に立って考える事ができない者の典型的な考え方です。自分に関わる人が1人でも亡くなったらと考える事ができる人であれば人数云々で事の重大さを判断しません。自分に絶対に関係のない、関心のないところの出来事だという感覚だからそのように考える事ができるので、自分にとって大切な人の命がそこに含まれて「死んだのは自分の身内だけだから大した事ない問題だ」と心の底から言えるのなら良いと思いますが、状況によってそういった事を言える状況もあるにはありますが、基本的に今回のような状況においてそう言える人間には人として大切な何かが欠けていると思います。こう言った思いやりと想像力はもっと当たり前に持っていると思っていたのですが、議論に挙がる話題を背景に残念な気持ちが生まれます。

 

 

4) 感染拡大によって医療現場に混乱が起きかねない

新型コロナウイルスはその実態に関わらず指定感染症になっています。したがって法律の面で感染者は医療監視下での隔離が必要になります。これは誰がどんなにウイルスを軽く見ようと、もしかしたら実際には本当にたいしたことのないウイルスであったとしても、指定感染症になっている以上はそういう措置がとられます。感染者が増えると当然ながら医療現場は忙しくなりますし、不規則且つ予測不能な症状や状況によって感染者一人一人に対しての作業人員は同じく不規則に割かれる事になります。

まず、医療現場に感染患者が入る事によって、他の怪我や疾患などによる入院患者、医療従事者への感染など、いわゆる院内感染の可能性があります。

そして次に、指定感染症ですから症状の軽重に関係なく陽性の数が増える事で病床が埋まっていきます。陽性であるだけで隔離の対象になりますので当然ながら病院のキャパシティは簡単に超えます。またそこに医療的監視人員などが必要となりますので必然的に人員不足にもなります。

ということは、コロナ感染以外の患者、外来、救急など、日常で必要とされている医療が不足します。コロナでなかったとしても急に発熱した、急にケガをした、事故に巻き込まれ負傷したなどの対応ができなくなってしまいます。さらにはそういった外来や救急を受け入れても同じ建物内に指定感染症患者がいる事にも細心の注意を払わなければいけなくなるため、通常ではない業務を医療従事者は自身の感染リスクと同時に行わなければいけなくなります。このような状況になってしまってからでは遅いため、感染拡大をできる限り抑える必要があるからこその自粛のお願いでもあるのです。

コンビニのような感覚でいつでも119番すれば診てもらえて当たり前といった便利への慢心が、実際の現場の状況や将来的な懸念を想像する事すらもできなくしてしまい、結果的に自分たちの首を締める事になりかねないことも想像できないのは本当に滑稽です。

外出自粛に伴って、蜜でないからとバイクで出かけ事故を起こして救急隊に感染させたり、1人だからと山に登って滑落して救助隊を出動させたり、とにかく1人で動いて1人で終われば確かに蜜や感染とは離れた内容であっても、その道中や内容の最中に起きうる可能性にまで想像ができていない事がそういった結果的に本末転倒な事に繋がってしまうのです。リスクに対して外出を控えてくださいという時期に、遊びや趣味を我慢できない、万が一に対して今はやめておこうと思えない大人が多いのは、本当に短絡的に自分の満足だけを優先している想像力のカケラもない自分勝手だと思います。

 

 

大きくあげてみると大体こんなものでしょうか。

ここから元々の書き方に戻します。

 

視点を変えてみれば、自粛と休業要請の影響による困窮した状況というものは、

私も飲食店舗経営をしていましたので、もしも自分が今、

飲食店舗経営のみで生計を立てていたとしたらと考えると、

本当に大変を通り越して生きていくのが精一杯の状況になると思います。

路頭に迷う可能性と向き合わなければいけなくなっている事でしょう。

一言で自粛と言われ休業を要請されても、

毎日の営業での利益の積み重ねが生活原資になるので

休業を続ける事はたとえ数日でも大きな負担となり

死活問題に直結します。

 

過去に、飲食店経営のみの時期に「阪神淡路大震災」を経験し

およそ2ヶ月間の強制的な休業を行なった事があります。

幸いにも電気と水道は数日で回復しましたが

ガスの復旧には約3ヶ月かかったため

営業再開の目処がなかなか立たなかった事を覚えています。

 

道路が至る所で寸断され、買い物をするにも近場の商店は

全て被害に遭い自分達と同様の状況。

被害の及んでいない県外に買い出しに出かけ戻るだけでも

限定された道路に車が殺到しているため大渋滞で動かず

少しの買い出しに片道8時間以上はザラなので、

朝出かけて家に帰るのは深夜になる事もありました。

 

日常の私生活送るのが精一杯の状況で、営業再開を考えるのは

非常に難しく、調理に必要なガスが使えない事は

本当にどうしようもなく行き詰まった状況でした。

 

ただ、

やはり今の世の中と同じで、いつまでも休業状態を続けると

生活に必要な収入を得ることができないため

それこそ生活が立ちいかなくなります。

 

震災から約2ヶ月目から営業の再開を試みました。

県外に買い出しに行き、電気炊飯器とカセットコンロを購入し

最低限のメニューでの営業を行いました。

こちらも幸いカセットコンロ用のボンベは楽に入手できたので

ガスの復旧まで営業を継続する事ができ、

近隣の住民方も同様に苦労する中での飲食の提供は非常に需要があったので

薄利多売での営業を続ける事がなんとか出来る状態を維持でき今に至った事は

本当に様々なことに感謝しかありません。

 

自分自身、この経験を基に様々な事を様々な状況にあてはめ

今の状況などに応用する事ができていると思います。

過去の記事などで、遊びや趣味を我慢できない人を批判していますが

自分の状況でも当時そんな事は想像もできませんでしたし

我慢ができないような心理状況になる事もありませんでした。

 

東北の震災のように、地震によって倒壊させられ

さらに追い討ちとして津波になにもかも流されてしまい

本当に何もかもが失われ、電気もガスも水道もなく

住むところ、仕事、本当になにもできなくなって

何かしらの目処がたつまで、本当に進んでいるのか

手探りの中1円にもならず収入もなくひたすら瓦礫を片付け

当初は本当に絶望しか無かったと思います。

 

全く人間の意思とは関係のない原因で生活を根こそぎ奪われ

何からはじめればいいのかわからない状況です。

 

今、新型コロナウイルスの脅威は

目に見えない感染というものが原因で行動が制限されています。

人から人にうつると場合によっては死者が出るから

出来るだけ人と人の接触を減らす工夫をお願いしている状況です。

出来る人はただ不必要に人と会う事を我慢する

たったこれだけのことで、我慢に伴って自宅にいるにせよ

電気もガスも水道も使え、自宅があって買い物もできて

生きていくための環境は贅沢と言えるレベルで揃っています。

 

新型コロナウイルス感染症が拡がったことで

日常の当たり前のことに麻痺し、麻痺だけでなく慢心している

人々の心が浮き彫りになりました。

 

普段の不満を振り返って考える想像力が今必要で、

当たり前に仕事ができて、当たり前に報酬がもらえて

その仕事に不満を言い、報酬に不満を言い、休みが少ないと不満を言い、

いざ有事に際して仕事が減り、無くなり、収入が無くなり、

どうですか?

買い物に出かけ、遊びに出かけ、混雑に不満を言い、サービスに不満を言い、

有事に際して店が閉まり娯楽ができなくなりどうですか?

世の中にあるすべてのことに影響が出て、

従来のように便利だったものの多くが制限されどうですか?

 

自分たちが当たり前だと息を吸うように麻痺していた事は

色々な人たちの努力や従事によって成り立っているのであって

自分以外の人がいるからであって、けして当たり前では無いのです。

 

その自分以外の多くの人に危害が及ぶ危険性があったり

場合によっては命を落とす人がいるという出来事を

他人事として捉えているとしか思えない発言や行動、

ここまで散々書いてきた

「たいしたことない」「騒ぎすぎ」「怖がりすぎ」

といった発言をする人は、日常に感謝の心が全くないか

そもそもそういった想像力がない人なんだと強く感じました。

 

綺麗事かもしれませんが、

私自身は自分で把握できる限られた範囲ではありますが

「自分だけ、自分のまわりだけが平和ならそれでいい」

「自分の見えない範囲のことは仕方がない」

という考え方は絶対にしたくありません。

 

自分が生きているのは、自分が収入を得て生活できているのは、

服を着れるのも、食べ物を食べれるのも、欲しいものがあるのも、

生きていく上での全ては何らかの形で誰かが行動しているから、

自分以外の誰かが世の中を作ってくれているからです。

 

全ての事に感謝する事の基本はまずそこにあると思いますし、

ただ単に食べ物や服や物を提供してくれる事にではなく、

土から作る人がいて、作物を育てる人がいて、

どんなものにも始まりと関わりがあるその全てを想像すべきです。

 

お金、経済、仕事の全てにおいても始まりと関わりがあって

繋がりと連鎖と様々な影響から成り立っています。

 

これは全て人です。

 

自分に見えようが見えなかろうが、関係有る無しに関わらず

自分の行動も何かの形で関わっています。

 

私はそう思うからこそ、自分に見えようが見えなかろうが

人が望まずに命を失ったりする脅威に対しての呼びかけを

軽はずみに考えたく無いからこそ、協力できる選択をしました。

 

コンビニで欲しい時に飲み物が買える、自販機で買える、

こんな単純な事も絶対に当たり前ではなく

たくさんの人の努力と労力によってもたされた利便性であって

当たり前ではないはずなんです。

少しだけでも、コンビニに置かれる商品ひとつひとつが

どのような経緯で作られ、どのような経緯でコンビニの棚に並ぶのか、

その棚は誰が作って誰が設置して?コンビニの建物は?

レジの機械は?ATMもそうです。電気は?冷蔵庫は?

接客してくれる人、棚に並べる人、商品を運んでくる人、

本当に膨大な時間と膨大な労力と人が関わって出来ているという事を

少しでいいので想像して、その1人になっている自分を想像してみれば

こんなに便利にしてくれている事に自然に感謝できるはずなんです。

 

横柄に振舞ったり、自分の当たり前が無い事に文句をつけたり

想像力のカケラもない本当にくだらない事です。

 

おそらく今回の脅威が未曾有の大震災では

ここまではっきりと感じることは難しかったかもわかりません。

強制的に何もかも奪われ問答無用で言い訳のできない状況では

その当たり前に気づく事ができない人はそのままでしょう。

 

今回の、出来そうで出来ない絶妙な制限を必要とした有事は

人の贅沢と当たり前、日常の想像力と感謝を忘れている事を

残酷なほど浮きださせる出来事だと実感しています。

 

相変わらずとても長くなりました。

まだまだ言いたい事は山ほどあります。

思いやりや感謝は、

自分が相手の立場に立って考える事ができる想像力が必要です。

逆の立場に立った時のこと、人の境遇を慮ること。

そういった想像力もないのに簡単に感謝や思いやりを口にする事は

まさに綺麗事でダブルスタンダードといわれるべき事です。

 

間違いや思い違いは誰にでもある事ですから完璧である必要はありません。

その時に素直に謝る事ができるのか、

自分を正当化するために見苦しいこじつけを見せ続けるのかで

人間性が大きくあらわれます。

 

自分の正しいのためにいろんな事の解釈をいじくりまわすより

まずは自分の考えを止め、冷静に客観的に判断していけるよう

私自身、これからより一層気をつけたいと思います。

 

杉本