杉の坊のつぶやき

実は知らない健康や医療に関する専門的な情報をお届けできるよう頑張ります!個人のつぶやきもあります

漢方の考え方

※内容は個人の主観です。

 
漢方といえば聞いたことがある方のほうが多いかもしれませんが、
その原理というか発想は案外知らない方が多いと思います。
 
「食べ物で身体を治す?」
「化学薬品を使わない治療法?」
 
などなど、なんとなくイメージはできていても
その実際の原理は浸透していないですし、
起源、思想共にそんな簡単に理解できうるものでもありません。
 
なぜなら、現代の医学を代表する西洋医学と、
経験と実体験から成り立つ東洋医学では、
どうしても相容れない部分があるからです。
 
相容れないというと少し違うかもしれませんが、
研究においての理解?の部分に大きな差があるから…
といったほうが近いかもしれません。
 
中国に代表される食の文化を見ればわかる通りで、
動物、植物、昆虫と、生きとし生けるものすべてを食します。
4本足はテーブルとイス以外、空を飛ぶものは飛行機以外すべて食べると言われるほど。
食に関する歴史と研究は、言うまでもなく膨大なものです。
 
西洋医学だけでなく、医療全般の観点では
中国の歴史と研究は世界でも群を抜いています。
2000年以上の歴史を持つ漢方薬は、100年ほど前から
物理、化学、医学により、有効成分や作用などが解明されてきましたが
すべてが完了したわけでもなく、過去から現在、未来へと
その研究は続けられています。
 
世界の医学会では、近年になりようやくアダプトゲンという概念が持たれはじめました。
アダプトゲンとは、
①毒性(副作用)がないこと
②作用が特定の臓器に限定されていないこと
③正常化作用を持っていること
この条件を備えた治療薬をアダプトゲンといいます。
 
これは、病原がわからなければ原因療法がなく、
対症療法しか考えることのできなかった
古い西洋医学の反省から生まれたものです。
これに対して東洋医学漢方医学)では、
2000年も前からアダプトゲンの概念がすでに存在していました。
 
紀元一世紀ごろ、およそ2000年以上前に中国初の医学書『神農本草経』ができ、
それとほぼ同じ時期に、西洋でも『ディオスコリデスの薬物書』が完成しています。
西洋の薬物書では、動物、植物、鉱物に分類されています。
 
『神農本草』では上薬、中薬、下薬といった分け方で分けられていて、
上薬は “命を養う” 、つまり不老長寿の薬で、いくら飲んでも副作用がなく
何年飲み続けても構わないものを指します。
中薬は “性を養い 虚弱を補う”、 つまり強壮薬で体の衰えを助けるものですが、
時と場合により毒にもなりうるものです。
下薬とは “病を治し 毒多くして 久服すべからず” とあり、これは病人が飲むものであり
毒が多いので長く飲むものではない。
としています。 
 
つまり『神農本草経』のこの分類は薬の原料が植物であろうと動物であろうと、
徹底的にそのものが人間に対してどういった効果をもたらすのかを基準としています。
ちなみに『さんざし』は上薬に入ります。
 
漢方は、現代のような物理、化学、医学が進歩していない時代から、
成分構成は不明のまま、ひたすらどんな効果があり、そして害があるのか
ということを中心に論じていく卓抜した発想法が根本的な思想になっています。
医学的に言い換えれば “徹底的に臨床実験のみを行ってきた” データといえます。
 
余談ですが、世界的に見ても『外科手術』を初めて行ったのは
一般的には日本の「華岡青洲〔はなおかせいしゅう〕」という医師が
1804年に世界で初めての全身麻酔を用いた乳癌の手術をしたという記録があります。
およそ200年前の江戸時代です。
麻酔を用いない手術では紀元前5000年頃のフランスの遺跡から
石器を用いたとみられる手術痕のある頭蓋骨が発見されています。
 
中国では、日本で有名な三国志の中に
華佗」と言われる医師が全身麻酔を用いて脳の手術を行ったり
矢尻の刺さった腕の外科手術などを行ったといわれる記録があります。
この記述はフィクション「三国志演義」だけではなく正史にもあるため、
事実であればおよそ1800年前に麻酔を用いた外科手術が行われていたことになります。
1800年前というと日本では卑弥呼のいた弥生時代
世界初と言われる日本での麻酔を用いた「華岡青洲」の外科手術は
それから約1600年後ということになります。
 
こういった時代背景がある中国の歴史は本当に凄まじいものがあります。
その中で一つの思想を元に脈々と築きあげられた漢方は
わずか100年足らずで簡単に解明できるものではありません。
 
多くの医師、研究者が漢方薬を科学的に証明するため研究を続けていますが、
漢方薬のその膨大な量と、科学的にはわかっていない人体の働きがあるため、
数多くの漢方薬が証明された一方、作用の特定できないものが多く存在するのも現状です。
 
実際、解明しようとしても基本の発想が大きく異なることもありますが
物差しとなる研究基準が西洋医学の場合は、わかっている範囲の物差しを当てる方法なので、
わからないことはわからないままになってしまいます。
漢方の発想は『ゼロ』から繰り返す実証がベースなので、
全てのものに平等に当てはめて考えることができるわけです。
 
また、西洋医学的な診断では、患者の体質にはほとんど関係なく病名に対して薬が出されます。
体が弱い人にも強い人にも風邪なら風邪薬。体重や年齢は配慮しても、
例えば胃の弱い人が自己申告すれば一緒に胃薬が出たりと薬が増えますが
何も言わなければ一般的な同じ処方になります。
 
病院でも漢方薬と呼ばれるものが出ますが、一般的に日本で認知されているような
病院などで処方される漢方薬は、西洋医学的な発想を基に作られていて
厳密には漢方薬でありながら漢方薬ではないような位置付けです。
処方の方法も症状に対して→効果、と言った具合に発想されていますので、
結局は対症療法的発想で処方されているにすぎません。
 
漢方の正式な処方では、症状はもちろんですが、
患者である本人の基本的な体質や生活習慣を考慮し
現在の体調や体型、食事の嗜好までを参考として処方します。
膨大な問診の中で質問の回答を基に、その個人に最も適した漢方薬を探します。
時には調剤を行ったり、同じ原料でもその加工の方法を変化したりもさせます。
厳密には100人いれば100通りのその方だけの薬がつくれるということです。
 
特に重篤な患者の場合には、上薬、中薬、下薬の使い分けが重要で、
患者の体調の状況に合わせてしっかりと変えて行かなくてはいけません。
処方変化のタイミングを間違えれば、下薬、中薬に関しては毒にもなりかねません。
 
そういった意味でも、患者としっかりと向き合わなければ
漢方では正しい治療に繋がらないと言っても過言ではないわけです。
 
しかしながら、科学的な根拠云々ではなく、
実際に徹底的に使用した結果の、実証を基本としたデータが 
個々に合わせて処方が出来るレベルで考えられているということは
誠に圧巻であるとしか言いようがありません。
 
4000年という途方もない時間の中、漢方という観点で受け継がれ続けてきた研究には、
秦の始皇帝が追い求めた不老不死の薬に通づる、凄まじい一つの信念が感じられます。
 
 
 
過去の記事でも何度も繰り返していますが、
西洋医学の基本は科学的根拠です。
どういった成分がどのように働くのか、どの分量でどのような効果になるのかを
科学的なデータをベースにして科学理論的に解釈します。
また、物質の合成を行って、体内の化学変化をほぼ強制的に誘発させたり、
通常では起こり得ない反応を、これも強制的に起こさせる事で効果を生みだしています。
要するに、体の中で起こっている自然な化学反応を、薬によってコントロールしている
と考えるのが最もスムーズかもしれません。
 
従って、科学的に解明できていない部分に関しては何もできないのです。
原因と影響が特定できなければ、そこに何を加えればどうなるのか?
という部分が全くわからないわけです。
 
また、特定の成分が特定の働きを持っている事がわかっていても、
科学的な発想ではその特定の成分に限定して物事を考えてしまう傾向があります。
その特定の成分が特定の働きをするために必要な形成や重要な未解明な要素に関しては
後回しになってしまいがちで、結果的に様々なサポートをしている成分がまでも軽視し、
副作用などの原因につながってしまうわけです。
 
 
漢方では、はじめに述べた通り、成分構成の全くわからない時代に
何をどのようにすればどのような結果や効果が現れるかを
徹底的に実証実験のみで検証しています。
その中には未だ科学ではわからない要素を多分に含んでいます。
「何故だかわからないが何度やってもこういう効果が現れる」
安全なのかも、危険なのかも、すべて試しているわけです。
 
この方法を否定するか肯定するかは個人の判断ですが、
この方法は事実を得るために最も大切な事だと私は考えます。
 
これは嫌みになってしまうかもしれませんが、
現に、科学的な根拠を基に提供されているはずの薬や治療法で
どれほど予想外の出来事が起こって被害者が出ているかを考えると、
科学的に未解明の部分がはらんでいる事の重要性と役割は
人体にとって非常に大切な部分なのではないかという事です。
 
科学はわからない事を素直にわからないとすれば良いものを、
わからない事はダメな事のように否定します。
 
人間の歴史と生活はすべて『経験』で成り立っているはずです。
動物たちの本能もすべては経験がもたらすDNA情報なのです。
科学的に成り立ちやメカニズムを、目に見えるように解明する事は非常に大切な事です。
しかし、わからない、科学では説明できない、といった事を
オカルトや都市伝説などで括って排除しようとするのはまことに滑稽な事です。
 
なぜなら『わからない』のであって、『わかって否定する』のとは全然違うからです。
このほんの小さなごくごく当たり前の事が、何故か矛盾するのが現代科学です。
 
こういった表現をすると科学を否定しているように聞こえてしまいかねませんがそうではなく、繰り返しになりますが、ただ単にわからない事はわからないとだけ認めてほしいのです。
科学ではわからない事なんてやまほどあります。
多くの昆虫の生態や動物の本能、人間の意識などなど。
 
解明されて理解に至る事はとても素晴らしい事です。
人間にとって科学や文明は素晴らしい発明であり人類にとって絶対に必要な事です。
ですから、だからこそ先人の経験を認めつつもてらしあわせてゆくことが大切なのであって、否定する為の材料ではないのです。
 
長くなりましたのでこのへんで。
 
次回は科学への解釈について触れてみたいと思います。
 
 
 
杉本
 
※内容はあくまでも個人の主観によるものです。